太原雪斎
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史実紹介

九英承菊(きゅうえいしょうぎく)とはじめは名乗っており、駿河の善得寺、後に京都五山の建仁寺で修行をしていた。 この頃から秀才として、将来を期待されていたと言われる。 それを知った主君の今川氏親が帰国して今川氏に仕えるよう要請し、氏親の五男・芳菊丸(今川義元)の教育係に選ばれた。 この教育係をやっていた時期に太原雪斎に名を改めたとされている。 天文5年(1536年)に、今川氏輝が死去し、今川氏内部の後継者争いが起こる(花倉の乱)。雪斎は義元を支持し彼の家督相続を実現させた。 その功績により、当主となった今川義元は雪斎を厚く信頼し、政治・軍事における最高顧問として重用する。 弘治元年(1555年)、駿河長慶寺にて死去、享年60。